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韓国の人気時代劇「トンイ」の主人公トンイは、最期どのように亡くなったのでしょうか。
トンイの死因は病気だったの?死因は?
トンイは幸せに亡くなったのかな?
この記事では、トンイの死因や最期の様子、ファンの感想をまとめます。
Contents
トンイの死因は?
トンイの死因は、実はよくわかっていません。
ドラマでは、最終回でトンイの息子延礽君(ヨニングン)が王(英祖:ヨンジョ)になり、チョンス兄さんとともにトンイの墓参りをしていました。
延礽君(ヨニングン)が王になっているという事は、粛宗も禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の息子の世子(景宗)も亡くなっているということです。
ドラマ内では、トンイの死因に関する直接的な描写はなく、場面の切り替えでうまく時間経過を表していました。
トンイのモデルとなった淑嬪崔氏(スクピンチェシ)の病名や最期の様子は?
ドラマはフィクションですが、トンイのモデルとなった実在の人物は、粛宗の側室の淑嬪崔氏(スクピンチェシ)です。
淑嬪崔氏は、1718年夫の粛宗より2年早く先に亡くなっています。
1716年ごろから急に病がちになり、私邸で療養していましたが、 1718年3月延礽君の私邸で亡くなりました。
享年49で、当時の王妃の平均寿命が48.7歳なので、平均的な寿命だったと言えます。
粛宗は、病気がちの淑嬪崔氏に薬を届けさせるよう命じたようですが、淑嬪崔氏の詳しい容態や病名についてはわかっていません。
粛宗の統治時代を書き記した粛宗実録に、淑嬪崔氏の記録は極めて少なく、粛宗44年3月9日淑嬪崔氏が亡くなったことと規則に従って葬儀を行うよう命令が出されたことだけ記録されています。
淑嬪 崔氏卒。上命禮葬等事,依例舉行。輸送棺板,又命優送祭需。
(淑嬪崔氏卒す。上命より禮葬等を例に依って舉行す。棺板を輸送し,又優れた祭需を送ることを命ず。
淑嬪崔氏が亡くなる。王の命令で葬儀などは規則に則って執り行う。棺を送り、また葬儀の際必要なものは良い品を送るように命じる。)
粛宗実録 粛宗44年3月9日
以上が粛宗実録の抜粋で、ほかの書物などには淑嬪崔氏について書き残されたものはなく、朝鮮では王の生母であっても女性の記録はあまり残っていません。
そのため、トンイ(淑嬪崔氏)の死因や病名は今なお不明です。
実在するトンイのモデル淑嬪崔氏とは
では、そもそもトンイのモデルになった淑嬪崔氏とはどんな人物なのでしょうか。
淑嬪崔氏は、李氏朝鮮の第19代国王粛宗の嬪で、 第21代国王英祖の生母です。
「嬪」とは、中国を中心とする東アジアの各地域で使用された皇帝や王、天皇の側室に与えられた位号・封号の一つです。
朝鮮では、側室の中で一番偉いのが「嬪」で、側室が上り詰めることができる最高位です。
1670年11月6日、崔孝元の娘として生まれ、1676年(粛宗2年)に7歳で入宮しました。
宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もありますが、それは崔氏の死後、息子延礽君の即位を反対する勢力が流した噂に過ぎず、史実ではありまん。
実際は、針房(チムバン、침방)に所属していた宮女でした。
後に対立する禧嬪張氏も元は針房の女官で、針房の女官は王族に仕える至密の女官に次いで高位でした。
その後、崔氏は仁顕王后付きの内人(尚宮でない女官の総称)となります。
1689年、仁顕王后閔氏が廃位され禧嬪張氏が王妃となります。
そして、正確な時期はわかっていませんが、1692年4月22日以降、崔氏は粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン、승은상궁)になり、1693年(粛宗19年)4月26日に淑媛(スグォン、숙원)になります。
承恩尚宮とは、王様の寵愛を受けている女官で、宮女から側室になった人は一度は承恩尚宮になります。
子供が生まれないと側室にはなれず、尚宮のまま人生を終える宮女もいました。
「淑媛」は、朝鮮の宮中における側室の一番下の位です。
尚宮や宮女から側室になった場合は、まず始めに「淑媛」になります。
有力な重臣の娘が側室になった場合はもっと上の位から始まることもありました。
淑媛になった1693年、崔氏は王子を産みますが、2ヶ月で亡くなってしまいます。
甲戌換局という政変で仁顕王后が復位された年(1694年)の9月13日、延礽君(ヨニングン、연잉군)、後の21代国王の英祖を産みます。
それに先立ち、同年6月2日に淑儀(スグィ、숙의)になっています。
1695年(粛宗21年)6月8日に貴人(クィイン、귀인)になり、1698年(粛宗24年)7月7日にまた子どもを産みますが、3日で亡くなります。
1699年(粛宗25年)6月13日、前年に第6代朝鮮王端宗が241年ぶりに復位されたことを祝賀して、正一品相当の側室最高位、淑嬪(スクピン、숙빈)となります。
1701年10月から1704年4月の間に本宮の昌徳宮(チャンドックン、창덕궁)を離れて、梨峴宮(イヒョングン、이현궁)に居所を移し、以降、梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン、숙빈방)と呼ばれるようになります。
しかし、この淑嬪崔氏に与えられた屋敷が大きすぎたため、朝廷が批判した記録もあり、粛宗自身もこの屋敷のそばを通るたびに「心が痛む」とつぶやいていたようです。
1711年(粛宗37年)6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子・延礽君の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下します。
昔日梨子峴宮,卽今淑嬪房也。延礽君第宅已定,同居此第,未爲不可。
(昔日は梨峴宮、卽ち今の淑嬪房なり。延礽君の第宅已に定まり、同居此れしだい、未だなるべからず。
昔の梨峴宮は今では淑嬪房と呼ばれている。延礽君の家をすでに決めたが、まだそこで一緒に暮らしていない。)
粛宗実録 粛宗37年6月22日
しかし、粛宗は近くを通っても淑嬪崔氏に会うことはありませんでした。
そして、1716年ごろから病がちになり、1718年3月延礽君の私邸で亡くなりました。
戊戌三月九日戊午卒于彰義洞私第春秋四十九寔肅宗四十四也。
(戊戌三月九日戊午、彰義洞私第にて卒す。春秋四十九、寔に肅宗四十四年なり。
戊戌年(1718年)3月9日、彰義洞の私邸で亡くなる。享年49歳、粛宗44年のときである。)
淑嬪崔氏神道碑銘
「淑嬪崔氏神道碑銘」とは、英祖が建立した碑文で、淑嬪崔氏について記載されています。
性格は、「嬪天姿沈凝簡默喜怒不形於色奉侍」とあり、沈着で静かで控えめな人だったようです。
また、淑嬪崔氏はソウル中心部から20kmほど離れた京畿道坡州市廣灘面霊場里の昭寧園(ソリョンウォン)というところで眠っています。
13残っている園の中で最も美しく、史跡358号に指定されています。
当時の政治と妃との関係
次に、当時の政治と妃との関係について解説し、淑嬪崔氏の政治的立場や活躍について紹介します。
ドラマ内でトンイは王妃の廃位に振り回せれたり、禧嬪張氏と対立したり、王妃を救うために一役買いました。
実は、これらのことは史実です。
淑嬪崔氏の生きた時代、粛宗の治世は最も党派間の政治闘争が激しかった時代です。
南人と西人が朝廷で政治権力をめぐって争っていました。
粛宗はどちらか一方の権力が強くなりすぎないように、換局(ファングク)を行いました。
換局(ファングク)とは、朝鮮で政局の転換を意味する言葉で、目的は党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い党の力を弱化させることです。
主に粛宗の治世から英祖の治世にかけて度々行われ、粛宗は3回実施しました。
換局のあおりを受けて、仁顕王后は廃位されたり、復位されたりしました。
換局が行われることで、党派が支持する王妃やほかの妃の命運も分かれます。
1689年(粛宗15年)に発生した「己巳換局」は、粛宗が西人の提起した元子問題を口実に西人を失脚させる一方で、一度目の換局(庚申換局)で失脚させた南人を再び重用しました。
発端は1688年、禧嬪張氏が王子・昀を生んだことで、粛宗は昀を元子(王位継承順位第1位)に封じようとしますが、当時政権を掌握していた西人派は仁顕王后を支持していたため、昀の元子称号に反対します。
これを王に対する反逆と捉えた粛宗は西人を処罰し、禧嬪張氏を支持した南人を代わりに要職に付け、政権交代がなされ、仁顕王后は廃位され、禧嬪張氏が王妃に冊封されました。
この当時、崔氏は側室ではありませんでしたが、仁顕王后付きの内人でしたので、ある程度影響を受けたと考えられます。
その後起きた「甲戌換局」は、1694年(粛宗20年)に発生し、甲戌獄事とも呼ばれます。
粛宗は前回の換局「己巳換局」で西人を粛清し、仁顕王后を追い出した後張氏を王妃の座につけましたが、南人が権力を持ちすぎたことに危機感を覚えたため、これに対抗して西人を登用し、南人を政権から退けます。
この時、崔氏はすでに側室になっており、西人老論派の金春澤(キム・チュンテク)と手を組み、仁顕王后の復位に貢献しました。
崔氏は「張氏の兄である張希載(チャン・ヒジェ)が自分を毒殺しようとしていた」という告発をし、張希載は済州島(チェジュド)に流罪、張氏は禧嬪に降格となりました。
この事件の証拠は、崔氏の告発のみだったため、嘘の可能性もありますが、いずれにせよこの一件が仁顕王后の復位と西人の勝利に導きました。
これにより、南人の権力は失墜して2度と政権をとることができませんでした。
さらに、復位6年後に仁顕王后が亡くなると、淑嬪崔氏は禧嬪張氏が仁顕王后を呪ったと粛宗に訴え、1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑されました。
この事件も淑嬪崔氏の告発のみが証拠で、その上、仁顕王后の死後40日後の告発絵あったため、淑嬪崔氏が禧嬪張氏を陥れるためにが策したのではないかという疑問点が残ります。
また、ただの心変わりなのか疑問に思ったからかわかりませんが、粛宗はこの一件以降、淑嬪崔氏を冷遇します。
しかし、何はともあれ、これにより淑嬪崔氏は対立していた禧嬪張氏に完全勝利し、朝廷では淑嬪崔氏と手を組んでいる西人の特に老論派が優勢になります。
このように、当時の妃たちと政治は密接に関わっており、その中で淑嬪崔氏は西人の一員として一翼を担いました。
ドラマのトンイの死に関するファンの感想
最後に、ドラマのトンイの死に関するファンの感想をまとめます。
いろいろな感想がありますが、トンイのドラマのストーリーや最終回に満足し、感動しているファンが多いですね。
最後の最後までトンイはトンイらしく、気ままに暮らし、人々に慕われて幸せに暮らしていたのが印象的でした。
そして、宮中を出てからも王様との関係が良く、とても微笑ましく、見ているこっちまで幸せな気分になりました。
粛宗の時代は、宮中で起こる悲劇的な出来事が多すぎますが、ドラマ内ではトンイの明るさや前向きな性格がよどんだ空気を吹き払う役割を果たし、史実に沿って描く重苦しい展開も重くなりすぎんせんでした。
また、禧嬪張氏の陰謀にも毅然と立ち向かうトンイの姿は、現代に生きる多くの人に勇気を与えました。
このような理由から、視聴者はトンイに対して好感と応援の気持ちを抱き、ドラマは成功したのでしょう。
まとめ
以上、トンイの死因や最期の様子、ファンの感想などをまとめました
トンイの死の真相は分かっていないんだね
ドラマと同じように幸せそうな余生を送っていたらいいね
ドラマと史実は違っていますが、トンイ(淑嬪崔氏)の活躍はドラマだけでなく、史実でもあるようです。
資料が少なく、淑嬪崔氏の晩年は推測するしかありませんが、ドラマのように自分らしく幸せな人生だったらいいですね。